困った時の自分用メモ

読んだ本を考察してメモったり、自分でいじった物の感想をメモったりする場。週1更新を目指します。

個人的な話~喧嘩についての考察1~

嫁が夫婦仲の話、とりわけ「喧嘩」をほとんどしないが、世の中の男女は頻繁に喧嘩をしているような気がするという事に対して、私達夫婦がなぜ喧嘩をしないのかという理由を3つの軸で考察していたので、私も何となくその3軸からのアプローチで考察してみた。

 

【まず、喧嘩をすることは悪いことなのか】
〇喧嘩の定義とは
Wikipedia曰く
"大辞泉では喧嘩の項目に「言い合ったり殴り合ったりしてあらそうこと」とあり、この定義を採用するならば喧嘩とは、互いに相手に対する怒りの感情を込めた言葉を言い合うことや、腕力をぶつけあうことになる。言葉の応酬で行う喧嘩を「口喧嘩」や「口論」、「言い争い」と言う。"

これを参考にすると、相手に何かしら負の感情を抱いて、それを言葉や態度で表現した結果、一方、もしくは双方が円滑なコミュニケーションを拒否するに至ってしまった状態を「喧嘩」もしくは「喧嘩中」と定義できる。

〇「喧嘩」と「喧嘩中」は別物な気がしてきた
考えていくうちに、
・喧嘩とは、「相手に何かしら負の感情を抱いて、それを言葉や態度で表現する事」で、この表現の応酬が終わった時に、一方または双方が納得していない状況になるまでの過程が喧嘩

・喧嘩中とは、「喧嘩」が原因で「一方、もしくは双方が円滑なコミュニケーションを拒否するに至ってしまった状態」を「喧嘩中」と定義出来ると思う

という考えになった

〇喧嘩や喧嘩中の状態は悪いことなの?
少なくとも、喧嘩中の状態では
・相手に対して無関心~負の感情の状態を抱いていることになっているので、無関心であればマイナスになるとは言い難いが、少なくても、負の感情を抱かせてくる人間が近くにいるのはいいことではないと思うので、喧嘩中に関しては良いことではないと言えそうだ。
    
・では、喧嘩その物はどうかというと、喧嘩が原因で喧嘩中状態に発展することはあるが、喧嘩その物を行う事自体は一概に悪いことではないのではないかと思う。少なくとも、相手に対して感じている負の感情をお互いが表現しあって、納得はできないかもしれないが、理解はする事はできる、相手の思いを知る事は出来る。相手の思いを知り、理解が出来るのであれば、その負の感情を抱かないように出来る対策を考える事が出来ると思う。
つまり、喧嘩をしたとしても、喧嘩中に発展さえしなければ、悪いことではないのだと思う。

喧嘩をしない理由という事柄に関して考察をするとすれば、「喧嘩その物が少ない理由」と「喧嘩中にならない理由」の2軸が考えられそうだ

▼それを踏まえて、喧嘩をしない方法3点を分析していく
〇価値観が同じであることが重要であるとする
・価値観とは?
ある物事において、好き嫌い感じる感情などの事を価値観とする。
用途としては、
・うどんは好きであるが、そばは嫌い。ご飯が出るとうれしくなるが、パンが出ると殺意が沸いてくる。お互いにこのような考えになる場合、価値観が同じと表現できる

〇さて、価値観が同じだと喧嘩をしないのか?
少なくとも、同じ物を見て同じ感じ方をする分には、好感不快は共有されるはずなので、理屈以上に、感情的に相手に負の感情を抱くとは考えにくい。つまり、喧嘩にすらならない。喧嘩にならないのであれば、喧嘩中にも成り得ない

〇では、価値観が違うと喧嘩に発展するのか
少なくとも、お互いに違和感を感じ、それを指摘しあう事はにはなるかもしれない。

・うどんが好きなのは変だ、パンが出て殺意が沸かないのはおかしい等。
    
さて、この感情が生まれた時に、全て負の感情として相手に伝わるのだろうか。
否。恐らくだが、その湧き出た負の感情に対して「自分はそれが納得ができない、容認できない、理解できない」というのが、相手に負の感情として伝わるのだと思う。

・うどんが好きなのは変だと思うけど、あなたの言い分も最もだから納得はしている(情報を与えられて、それを基に判断して納得した状態)

・うどんが好きなのは変だと思うけど、私に勧めなければ容認できる(条件は付いているが、容認している)

・うどんが好きなのは変だと思うけど、そういう人間がいるのは理解できる、だって人間だもの(達観型。とりあえず人とはそういう物だと理解している)

・うどんが好きなのは変だと思うけど、別にいいんじゃない(無関心。良いかはわからないが、少なくとも負の感情を込める事にはならない)
     

〇では、上記の例に当てはまらないとどうなるのか。無関心ですらなく、何かしらの感情を抱くという所がポイントかな。

・うどんが好きなのは変だと思う「から」、うどんを好きになるのを止めて欲しい

・うどんが好きなのは変だと思う「から」、うどんをもう食べるな

もうみなまで言うまでもないが、負の感情で伝えるというか、「強要」になっている。つまり、自身が納得できない、理解できない、容認できない物かつ、無関心ですら居られない物は、大体、相手への強要、押しつけへと変化するのだろう。

これが表現の応酬となってしまうと、「喧嘩」に発展してしまい、さらには避けなければならない「喧嘩中」状態にも発展してしまい兼ねない。
     
〇まとめると、
・価値観が違う場合に
・自分がそのことに対して、納得、容認、理解ができず、さらに無関心でも居られない場合は
・少なくとも相手に何かを強要する事態になるので
・喧嘩の定義である、負の感情の表現の応酬に発展する可能性はあると言える
・逆に言うと、この時点で「納得、容認、理解ができて、少なくとも無関心では居られる」のであれば、お互いの負の感情を表現しても、双方納得しているので、喧嘩にすら発展しないのだと思う。

めんどくさくなってきたから簡潔にすると、
喧嘩状態の時の表現の応酬の最中に、どちらかが
「納得、容認、理解ができて、少なくとも無関心では居られる」
状態になりさえすれば、喧嘩状態から喧嘩中状態に発展せず、むしろ喧嘩状態が無くなると思う。
つまり、この
「納得、容認、理解ができて、少なくとも無関心では居られる」
この状況になるようにお互いが歩み寄れる余地がどの程度あるのかで、喧嘩になる、喧嘩中になるという頻度の度合いが決まるのではなかろうか。