困った時の自分用メモ

読んだ本を考察してメモったり、自分でいじった物の感想をメモったりする場。週1更新を目指します。

考察〜人に物を教えるという事の難しさ:教育と洗脳と詐欺〜

お節介をやいた時(主に、効率化を促したりした時)、どうも相手の反応が悪い事が多かった。それは何故なのだろうという事を、自分自身が感じる感情から推測してみた。

 ○物を教えるというのは、誰の為なのか?
結論から述べると、人に教えるという行為は、自分自身の為である。お節介も、突き詰めていけば「自分の為」である。

1. 自分が困る
2. 組織が困る(だろう)
3. 相手が困る(だろう)

1に関しては、言うまでもなく自分の為である。

2に関しては、本当にそれを行わないと組織が困るのかが主観になってしまうし、組織からの命令の場合は、命令違反は自分が困るという1に関係する事になる。

3に関しては、もはや誰の為にもなっていない。相手が困るというのは主観になってしまっているし、誰からも頼まれていない。簡単に言えば、教える側の親切心という名の承認欲求のような物を満たす行為にさえなってしまっている。

○相手が教えを欲しい時は、「問題認識」と「解決策の欲求」がある時のみ
相手が教えを欲しい時を考える時、自分ならどうなのかと考えて見た。
その場合、「問題認識をしていて、解決が欲しい時」と感じた。
そうでない場合は、相手の話は退屈であるし、鬱陶しくもある。
話を聞いても、到底受け入れるつもりもない。
自分がそうであるのだから、おそらく相手も同じように感じていた事だろう。

○例外として、無条件で受け入れる場合がある
例えば、学校での教育など「無条件で受け入れる」という状況。
これは、ある意味「その人が言っている事は正しいはず」という状況、
極端に言えば「信者」と「洗脳」のような状態であるとも言える。
このような状況の場合は、教えるという行為は無条件に受け入れられると思う。

○人に物を教えるという行為は、詐欺や洗脳に類似する技術であるという事
相手が教えを欲してない、つまり「問題認識をしていない」時の教えは、「問題を認識させる」という事から始めないといけない。
「それの何が問題なの?を」解決するという事だ。

そして、それを解決する「必要性」を認識させないといけない。
「問題なのはわかったけど、それ解決する必要があるの?」を解決する。

これらの手法は、
「要らないものを、さも必要かのように売る」
いわば営業、極端に言えば「詐欺師」のスキルセットの領分に類似していると感じる。

○ここまで考察して、お節介領分で人に物を教える機会はあるのか?
ある。
これが問題になる場面というのは、
「当人は十分に満足している」が「他者から見ると、それでは困る」を解決しようとした場合。
教育の一環なのだが、相手は無条件で受け入れる状態ではない時に、教える側は上記で述べた「問題認識」と「解決する必要性」を強く意識して教育に当たらなければ、それは決して相手には受け入れてもらえない結果になると推測される。