【掲題】
人の為という行動の動機は、最終的に辛くなるという考察。
相手に尽くしているのに、振り向いてくれない事に不満を感じている人には、何か得られる知見があるかもしれない。
(子育て中の親、相手に尽くしている恋人、熱心なファン等)
【概要】
例えば、人の役に立ちたいという気持ちがあり、ゴミ拾いを行ったとする。
毎日毎日ゴミ拾いをして月日が経過した。
さて、自分がやりたくて始めたはずのゴミ拾い。
一度も人に感謝される事は無かった。
ふと思うのである。
こんな事をしていて、一体何の意味があるのだろうか、と。
【詳細】
この例では
動機:人の役に立ちたい
行動:ゴミ拾い
としているが、
動機は、「自分が好きだから」「楽しいと感じるから」など、別の物に置き換えられるし、
行動も、「仕事、趣味、勉強、人生かけてやりたいと思う使命」など、別の物に置き換えられる。
なぜこんな掲題を出したのかというと、筆者が良くこの思考に陥るからだ。
〇意味を考えてしまう理由を考察してみる
ゴミ拾いの例だと、まず最初の分かれ道として、
1. そもそも、そんな事考えないで続けられる人
2. 何の意味があるのだろう?と考えてしまう人
に分かれるように感じる。
1の人は、本当に何も考えないでやっている(=習慣化していて、行動に疑問を持たないか、思考停止している)か、
自分の中の自己満足で完結しているから、続けられるのかなと感じる。
そうでない人は、遅かれ早かれ全員2の思考にたどりつくと思う。
筆者は2の人間なのだ。
では、なぜ「意味」を考えてしまうのか考えてみたのだが、
現状の結論としては、動機が間違っていた、という結論に至った。
筆者の場合は、「人の役に立ちたい」という気持ちは確かに持っている。
しかし、さらにその上に来る感情として
「他者からの感謝が欲しい(=フィードバックが欲しい)」
が、明確な動機として存在することに気が付いた。
つまり、「人の役に立ちたい」は動機ではなく、
「他者からの感謝が欲しい」を満たす為に、「人の役に立つ」が手段だったのだ。
そして、この考察を深めていくと、「他者からの感謝が欲しい」すら動機ではなく手段であり、
その上位に来るものは、「自分が幸せを感じたい」という動機に行きつき、
「自分が幸せを感じる事」が手段であるならば、
その上位に来るものは、「どうせ死ぬ人生、幸せに生きた方が楽しいし得だろう」
という動機に行きつくのだと考察した。
まとめると、自分が行っている事について迷いが出てきたとき、
それは、その行っている事の動機が、実は手段であり、
動機はまた別であるか、間違っている可能性を考えてみると、解決になるかもしれないという事だ。
例えば、恋人に尽くしているけど、相手が振り向いてくれないなどは、
・動機:恋人を大切にしたい
・行動:恋人に尽くす
と思われがちだが、恐らくはその上位に隠れた動機があるはずだ。
・動機:恋人に振り向いてもらいたい
・行動:恋人を大切にする
こんなところか。
〇不満は悪い事ではない。不満を人を不快にさせる行為によって消化することが悪い事である
フィードバックがもらえない事に対して、筆者は不満を感じると言ったが、
不満を感じる事は、気分がいいとは言えないが、悪い事では無いと思っている。
なぜなら、不満は原動力にも成り得るからだ。
同僚と話をしていて腑に落ちた結論があるのだが、
・不満その物は、悪ではない。
・不満を原動力にプラスに転化させる人もいれば、マイナスに転化させる人もいる。
・要は、人が持っている能力次第でどうとでもなる
このように捉えている。
プラスの例で言えば、
・ゴミ拾い誰も気づいてくれないから、もっと徹底的にやってやるぞと行動する
マイナスの例で言えば
・ゴミ拾い誰も気づいてくれないのは、近所の住人がバカだからだと、愚痴をこぼす
こんな所だろうか。
不満はプラスに消化していきたいものである。
恋人の例で言えば、振り向いてもらえない事に対する不満の消化を
・もっといいパートナーになる
なら良いが、
・憎しみに変わって、他人(時として自分)に危害を加えてしまう
だと、笑えなくなってしまう。
【結論】
・辛くなる理由は、動機が間違っている。
・動機が間違っている事で出てくる不満は、人に活力を与える事も、人を狂気に走らせる事もある