困った時の自分用メモ

読んだ本を考察してメモったり、自分でいじった物の感想をメモったりする場。週1更新を目指します。

雑談~歴史博物館を見て思った事(現状に対する物の考え方)~

もう1年以上も前だが、福岡・大宰府に遊びに行った時に、近くにある博物館にも足を運んだ。
その時は、人類の歴史的な事がテーマだった気がする。
博物館を巡る最中に、人の幸せとは何なのだろうという事を改めて考えさせられたので、
備忘録としてメモしておく。

〇人は昔から争っていたらしい
まず博物館に入って、縄文時代の出土品を眺めていた。
その時代ですら、何かしら争ったような形跡が見られる物が出土していたようだ。
これを見た時、一体どんな理由で争いを行っていたのだろうと思った。

ここから先は完全に筆者の妄想だが、
恐らくは、食べ物についての争いがあったのだろうなと思う。
縄文時代はまだ農耕がなく、安定的に食料の確保は出来ていない時代だったと思うので、食べ物を巡るトラブルがあったんだろうなと思う。
野生の動物でも、多分似たような事が起こると思うので、
知識があろうがなかろうが、縄文人も似たような理由で争ったのではなかろうか。

この仮定が正しかった場合、腹が減った時に筆者は争いをするのかなーと真剣に悩んだ。
そして、それは筆者には理解できない領域だと感じた。
なぜなら、筆者は本物の飢餓を経験したことがないからだ。
これは、現代の貧困への理解に通ずるものがあるだろう。

その中でも、あえて理解をしてみようと思うと、争ってでも食料を奪う動機があるとしたら、
考えられるのは、死への恐怖…ではなく、恐らくは目先の空腹による不快感・辛さからの解放だと思われる。

ここでは、不快感・辛さといった「苦痛」からの解放、という事を覚えておいて欲しい。

〇食べ物が満たされても、争いはやめなかったらしい
次に、弥生時代の出土品を眺めていた。
農耕が始まり、それなりに食料問題が解決していったようだ。
しかし、それでも人は争いをやめなかったようだ。
争いの原因は、食べ物ではなく、富や権力といった支配に関係する物にシフトしていったようだ。

ここからは筆者の推測となるが、苦痛であったはずの飢餓から解放された後、
次に苦痛となったのは、食料を得るための労働が、飢餓の代わりの苦痛となったのだろう。
そして、その労働から逃れるために、富や権力を求めて争いを始めたのだろう。

〇苦痛は排除できない
博物館の話はここまでだが、学ぶことはあったと思う。
苦痛から逃れても、次の苦痛がやってくるというのは、まさに筆者が今まで感じたこととそっくりだったからだ。
例えば、15年前初めて社会人として自立して生活を始めた。
その時と比べて、現在は収入も環境も良くなっていて、苦痛を感じる事は減っているはずなのに、
まだ、そもそも働きたくない、時間を減らしたい等と考えてしまう時がある。

結局のところ、人とはどこまで満たされても、何かしら苦痛を感じる生き物であり、
苦痛を感じている事が普通であり、正常だと思う。
今の苦痛が良いか、その次に感じる苦痛がいいのか、苦痛を選べるだけである。
その選んだ苦痛の状態が、恵まれていて幸福だと感じるのか、
恵まれておらず不幸だと感じるのかで、差が出てくるのだろうと思う。
考え方次第なのだろう。

〇苦痛を排除していった先には、何が待っているのか
では、視点を変えて、全ての願いが叶う場合、人とはどういった状態になったら、
苦痛を感じない状態と言えるのだろうか。
筆者の推測では限界があるが、それでも頑張って筆者の状態から想像してみる事にしよう。

例えば金の心配が無くなったら、働かなくても済む。
将来飢餓の不安も宿の心配も無いし、問題の大半は金で解決できるだろう。

その場合、次に感じる苦痛は「時間の使い方」である、要は暇潰しをどうするか、である。
金があれば、世の中の大半の娯楽は行い尽くせるだろう。
世界各国旅行三昧、好きな物を食べ好きな事が出来る。
趣味にも時間を費やせるだろう。

さて、それらを飽きずに、かつ、人生が終わるまでやり尽くせない量があれば、
きっと楽しく人生が終えられるか…と考えると、意外とNOなのでは無いかなと思う。
死の床に伏した際、人生を振り返ってみると、自分の人生色々楽しんでみたものの、
自分の人生の価値って何だったんだろうと、本気で考えるんじゃないかなと推測される。
つまり、心の渇望に対する苦痛の解決が出来ていない。
これは、金で解決できる場合もあれば、解決できない場合もあるかもしれない。
自分の人生の価値を決めるのは…どうすればいいんでしょうね。
自分自身で決めていいのであれば、自己満足を得られる事をすればいいだろうし、
他人の評価で決まるのであれば、他人の評価を得られるような事をしなければならない。

筆者が死の床に伏した際考える事は
筆者と関わった事で、人生においてとても大きい良い影響を与えてくれたと本気感じてくれる人が、
一人でも居てくれる事が、筆者の人生の意味だろうなと、今はそう思っている。
そしてこれは、金はあった方がいいだろうけど、無くても行えそうな事である。

〇まとめ
昔から人は苦痛から逃れる為に生きており、物理的に豊かになった現代でも続いている。
こう考えると、苦痛を感じている状態は正常であると言える。
感じている苦痛に対して、肯定をするのか否定をするのかは、個人の考え方による。
そして、物理的な苦痛に対して解決しても、精神的な苦痛の解決は、また別で行う必要があり、
それは金が解決してくれるとは限らない。

振り返ってみて、苦痛の状態が普通である、といった考え方が出来るようになったのが大きいと思った。
恐らく、また歳月を重ねていけば考え方が変わると思うが、ひとまずここまでを備忘録として記しておく。